陸上競技部 >> 内冨選手 インタビュー


 ラストランはいかがでしたか? 山口駅伝,そして別府大分毎日マラソンを走られた感想,今の心境など聞かせてください。

(マラソンは)疲れました(笑)。

内冨 恭則選手駅伝は自分の範疇というか,得意分野で,ある程度自信もあり,それなりに走れたと思います。唯一の誤算は,ラスト勝負で自分が勝てなくなっていたことでしょうか。これまでラスト勝負で負けたことはなかったのですが・・。

一方,マラソンは未知の世界でした。走り終えて,「マラソンは甘くないな」というのが実感です。あんなにキツいとは思いませんでした。

15キロまで第2集団について行ったのですが,このまま行くとゴールまでもたないと思い,わざとペースを落としました。それでもキツかった。あまりにキツくて,本当に途中で止めようかと思いました。30キロ以降は,31キロ,32キロと,1キロずつ考えながら走り,やっとゴールしました。尾方,五十嵐,油谷選手ら,みんな,こんなこと(マラソン)をして偉いと思いました。

これまで,チームメイトがマラソンを走るのを見てきて,「これだけの練習をすればこれだけ走れる」というイメージは持っていたのですが,現実は違いました。マラソンの練習はもっと突き詰めてやらないといけないなと思いました。私も,五十嵐選手にメニューを組み立ててもらい練習を積んではいましたが,マラソン練習として本来すべきことの2/3程度しかできていなかったと思います。同じ長距離と言っても,1,500mや3,000m障害とはまた違うと思いました。やはり,きちんとプロセスを踏まないとマラソンはできない。マラソンは本当に積み重ねだと実感しました。


 これまでの選手生活の中で,陸上をやっていてよかったと思うことや,最も思い出に残っている大会について聞かせてください。
マラソンラストランを終えた内冨選手陸上を真剣にやるようになったのは大学の時からですが,これまでずっと陸上をやってきて,その生活が当たり前になっていました。会社に入ってからは,オリンピックや世界選手権など,世界に出ることが目標でした。その目標を持ち続けたことが,私が長く続けてこられたモチベーションでもあったのですが,結局世界に出るための標準記録を突破することができませんでした。ですから,嬉しかったレースとか,そんな感覚はありませんでした。

最も思い出に残っている大会は,トラックでは,3,000m障害で自己ベストを出した1997年10月29日の大阪国体です。10月29日は私の誕生日。そして,この時の8分26秒48という記録は,その年の世界ランキング26位でした。「これで世界に近づけた」と思えた瞬間でした。


 後輩に期待することは?
ニューイヤー駅伝でぜひ連覇してほしいです。旭化成のように5連覇くらいしてほしいですね(笑)。世界を目指すことも大切なことの一つですが,ニューイヤー駅伝も,中国電力というチームを全国に示せるものであり,駅伝での頑張りが職場のみなさんの励みにもなると思いますから,ぜひ今後も,チームのためにも会社のためにも駅伝を大切にしていってほしいと思います。


 これまで内冨選手を応援してきたESSCや職場のみなさんにメッセージを
    お願いします。
ESSCや職場のみなさんには,駅伝にもすごくたくさん応援に来ていただき,大きな声援をいただきました。みなさんの応援が私のパワーになりましたし,とても嬉しかったです。職場のみなさんには,仕事面でもすごく助けていただきました。これまで応援していただき,感謝しています。どうもありがとうございました。


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